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大江戸身分事情
※http://hirose-gawa.web.infoseek.co.jp/mame/mibun.htmlのバックアップサイトです。
元サイトが有料サーバーなのでオーナーが死んだら消えてしまうことに気付き、無料サーバーにバックアップしました。
とある質問サイトで回答した内容の転載です。ビミョウに編集してあります。
「江戸時代、士農工商の身分を越えて、リクルートはできたのか」という質問への答えです。
他の回答に「「士農工商」は明治時代に作られ。広まった言葉」、というのが複数あったのも受けています。
「士農工商」は、明治に入って作られた言葉というか、
いや、江戸時代の書物にも出てくるのですが、ニュアンスが違うのです。
職業をこの4つに分類して、全ての国民は、そのいずれかに属していなければならない、と言ったのです。
いわゆる、ちゃんと働いていない「遊民」を禁止したということです。
というわけで当時も「士農工商」は概念として存在はしたけど、「上下関係」というニュアンスではなかったと思う方が正しいと思います。
確かに武士は態度の上でいばっていましたが、法律的な優遇はされていませんし、殆どの武士は、今の公務員的な仕事をしていました。
国民の税金で毎晩舞踏会をして遊んでいた同時代のヨソの国々と違い、
我が国の幕府はちゃんと年間予算を組んで大がかりなインフラ整備をし、治安維持に勤め、不測の事態が起これば、すばやく法改正をして事態を収拾しました。
通貨の発行量もかなりチミツに管理され、それが経済の安定の基盤となっていました。
今の政府とほとんど機能は変わらなかったと思います。
幕府の監視下で「地方自治」を任されていた諸藩も、事情は同じです。
だいたいあまりバカやると幕府にバレて「お取りつぶし」になるので、誰も必死だったはずです。
というわけで、「武士」はいまの「役人」みたいなもんなのです。
いばってはいましたが、いわゆる「働かなくていい特権階級」とは違ったのです。
農工商については、実質的に「ジャンル分け」にすぎなかったと思います。
地方の農業従事者が都市部に流れてきて商人や職人になり、都市部の人工が膨れ上がって問題になったのは有名なハナシです。
江戸後期にはいわゆる「ひと返し」政策が行われましたが、あまり効果はなかったようです。
というわけで、農民が商人や職人になる例はいくらもあると思います。
ただ、やはり商売にしても職人芸にしてもスキルがかなり必要なので、転職先は下働きなどの仕事が多かったのはたしかでしょう。
だから「農」出身で「工商」になるには、やはり、その息子さんの代までかかるかもしれません。
これは身分の問題ではなく、スキルの問題です。
江戸には「番太郎小屋」というのが辻々にありました。小さな小屋ですがヒトが住んでおり、夜回りや、木戸の管理をしました。マンションの管理人みたいなかんじです。
また、小屋でちょっとした雑貨や駄菓子も売っていました。まんまコンビニです。
これらの「番太郎」は東北出身のヒトが多かったようです。これもリクルート組ということになるかと。
昔も、北国のヒトは正直で律儀、というイメージは強かったようですね。
逆の「工商→農」ももちろんアリですが、今と同じで、面白みのないイナカ暮らしが嫌われるのか、あまりUターンやIターンは盛んでなかったようです。
今以上に農作業はタイヘンかつ専門知識が必要だったと思いますし。
リクルートの最も手軽な方法は「婿入り」「養子縁組」です。
「もと武士の農民」も「もと百姓の侍」も存在しますよ。
武士の2.3男坊は家督を相続できず、一生「部屋住み」ですから、それを嫌って武士を辞め、
商家に就職するものが多かったようです。
よく「武士の商法」はうまくいかない例えに引かれますが、江戸時代のこれらのリクルート組は、礼儀作法がしっかりしている上、教えなくても読み書きそろばんがカンペキですから、重宝がられたようですよ。
というわけで、「役者」というのは「士農工商」にジャンル分けできないので職業として認められず、「ヤクザ」(博徒)同様「遊民」と見なされ、幕府に嫌われました。
初期の役者は表向き何か商売を持っており(てきとうに店をかまえてカタチだけ何か売っていたり)、
そのときの店の「屋号」が、今も残る役者さんの「高麗屋」だの「音羽屋」だのの起源です。
江戸も後期になると「役者」という商売の認知度が上がって、あまりうるさいことをいわれなくなりましたが、天保の改革などでは再び苛められたようです。
同様に「落語家」も、表向きは他に商売を持っていました。
だいたい「身分制」だの「差別」だのがひどくなったのは、むしろ明治以降だと思います。
女性の権利を極端に制限し、人格を認めないような風潮も明治以降です。
部落問題に通じるモノももちろん江戸時代にもあるのですが、
「差別するのが目的」のようなあまりに歪んだ政策は、当時のモノではありません。
彼らは一定の社会的役割を持ち、神事や正月のイベントにかかわり、行政の下部組織としての機能を持っていたりもしました。
その起源や役割はいくつかに分かれるのですが、例えば、古事記に出る神の末裔だったりするのです。
「汚れ」としての禁忌と、「神聖」としての禁忌が、ないませになっていたように思います。
そういうビミョウな一般社会との距離とともに、
「一文無しになったらとりあえず彼らの仲間になる」という現実的な存在感とが、これまたないまぜになっていたでしょう。
とはいえ、非人になってもその代のうちならいつでも元に戻れました。
だから「非人」は今で言うと「浮浪者」に近い感覚です。
武士が、敵討ちの旅の途中で路銀が尽きて、非人の仲間に入る、などというのはお芝居では常套です。もちろん最後は敵を討ってりっぱな武士に戻ります。
ただし、「非人」の子供は、戻れません。ビミョウなところですが、やはり生活習慣が身に付いていないと普通の暮らしは難しいというのもあったかもしれません。
明治以降に作られたイメージで江戸以前を見る今の江戸観は、かなり、じつは「違う」ように思います。