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大江戸男色事情

まあ、吉原とか深川とかの中途半端なウンチクならそのへんで読めると思いますし、ちょっとレアなネタということで。
それなりに下な話も混ざっていますので、そのへんはご容赦ください。
あと、「ねりぎ」の話はそのへん探せば読めると思うのでここでは書いてません(書け)。

「江戸時代は同性愛が公認だったって?」
と過去何度かヒトに聞かれたことがあるので、そのへんのビミョウな雰囲気について書きます。ていうか長いぞ。すまん。

あ、チナミにタイトルの「男色」ですが、正しい読みは「なんしょく」ね。「だんしょく」ではありません。雰囲気ずいぶん違うでしょ。

↓見出しもくじ付けました。

= 1: 序 =
= 2: 衆道文化=
= せっかくなので若衆茶屋ネタもう少し=
= 上方の「若衆屋」=
= 3: 同性愛文化 =
= 4: 役者世界 =
= 5: 芝居茶屋とお相撲のはなし =
= 6: 市井の同性愛 =
= 7: いろいろ=
= 8: まとめ=


= 1: 序(えらそ〜)=

まず「公認」を「公的に認められていた」という意味に取るなら、
そういうことはまったくありません。
制度的なフォローもないですしね。
だからモンダイは「どの程度認知されていたか」です。
今より広く認知されていて、より「アタリマエ」にあつかわれていたとしたら、「公認」までいかなくてもずいぶん状況は違うことになります。

ていうか書いてみたらやたら長いので先に結論書きます。
:江戸時代の同性愛観というのは、でも、今とそう変わらないよ。

つまんなくてすみません、まあ、よければ↓も読んでね。「そんなはずない」とおもうかたも。
 

= 2: 衆道文化=

ここで、江戸時代の「同性愛(というかホモセクシュアル)」には、二つの面があることを見落としてはなりません。
ひとつは、つまり、有名な「衆道」です。
一般に「江戸時代は同性愛が盛んだった」と言われる根拠は、「衆道」の存在ですね。
手に入りにくい西鶴の「男色大鏡(なんしょく おおかがみ)」を引っぱり出すまでもなく、「好色一代男」にも近松の「心中万年草」にも、さらに歌舞伎十八番にも、衆道のシーンは出てきます。
衆道関係の本も、プロの若衆たちの評判記も、若衆歌舞伎の頃の役者評判記も残ってますしね。

ただ、「衆道」でたいせつなことは、恋愛対象になるのは必ず「前髪の少年」だということです。 「前髪」、つまり元服前の状態です。この状態の男を「男」と見なさないのは少なくとも平安時代から続く伝統です。
あれは、「同性愛」というよりも「異性愛」のひとつのバージョンだと思ったほうが正しいと思います。
つまり彼らに懸想したり、「若衆茶屋」で彼らを買ったりする男たちは殆どが、そのへんの普通の「異性愛者」だったということです。
「一代男」の主人公、世之助は「この上ない女好き」という設定ですが、ナチュラルに「男」を買います。「男」を買うと言いながら、それは買っている自分自身とは違う意味での「男」であり、チンポ付いてておっぱいなくて、でも「女の機能」を果たす、「男性」でない「何か」として認識されて」いたように思います。
だから、彼ら「若衆」は「前髪」で「髪の後ろ(たぼ)を大きくふくらませ」、「振り袖」を着て「襟をぬく」のです。
とくに京阪は、売色の「若衆屋」の少年(というか年増もいたけど)達は完全に女装だったようです。
さらに、これらの「衆道」風俗が盛んだったのは完全に江戸の初期に限られ、徐々に衰退し、
江戸後期、天保の改革の時点で若衆茶屋は江戸でも京阪でも殆ど姿を消します。需要を失ったということでしょう。

たぶんですが、女性というのはかなり手間暇かけないと本当にキレイにはならないのではないかと思います。
江戸は開府直後、京阪は戦乱の直後の復興期で女性もあまりキレイにしていられなかった時代には、美少年のほうが異性愛者にとってすら好ましかった。
でも時代が下り、女性が化粧してキレイになるにつれて「若衆」は飽きられた、といった面があるのではないかと思います。
あとは、やはり江戸の初期は「侍気質(かたぎ)」とか「侠客」「男伊達」みたいな男臭さをウリにした気風がもてはやされた時代ですから、これは直前の血なまぐさい時代の名残でしょうが、 やはり「おなごに簡単に惚れるのはかっこわるい」という妙なこだわりがあったようです、硬派ですね。
だからって「少年ならいい」てのもわかりませんが(笑)、まあ、そういう雰囲気はあったでしょう、こうなると一種のファッションです。

ただ、そこに「モノホン」の同性愛者が当然何割か混ざっているわけで、それが誤解を大きくしているのだと思います。
「モノホン」は「モノホン」として喜んで少年とセックスしていたと思いますが、一般的には、「衆道」は、「異性愛者の文化」だったというのが正しいと思います。
例えば江戸末期になると「衆道文化」そのものが下火なわけですから衰退した「若衆茶屋」のお客さんは完全な同性愛者ばっかだったろうなと思います。
それでも、市中のヒトビトは「若衆買い」という「異性愛文化」としてその行為を見ていたのだろうと。

チナミに「男色」、「だんしょく」と読むと男臭い雰囲気がただよってデンジャラスですが(雑誌でいうと「さぶ」っぽい世界)、
この当時の読みは「なんしょく」です。一字違うだけでずいぶん雰囲気が違います。「にょしょく(女色)」とも音が似通いますしね。あくまで「おんなの代替品」だと思います。
なので西鶴の「男色大鏡」も、一般にイメージされるような同性愛者の恋愛ものがたりではなく、若衆買い文化のエピソード集というかんじです。もちろんシロウトさん同士の恋愛話も乗っていますが、あくまで男×若衆 なのです。

「読み」ネタでもうひとつ。
「念者」という単語を「ねんじゃ」と読むと、衆道の年上役のことですが、「ねんしゃ」と読むと「物事を念入りにする神経質なヒト」のことです。全然違います。
「与話情浮名横櫛」、切られ与三郎を書いた「瀬川如皐」が「ねんしゃ」だったそうです。仕事遅くて役者さん泣かせ。衆道ではありません。

そして、時代が下り、性風俗文化が成熟していくにつれて、当然「正しい意味での同性愛文化」も成熟します。
これは現代のこの業界において経験的に言えるらしいのですが、「同性愛者が少ないイナカほどジャニ系の美少年がモテる、都会では男臭いのやおっさんっぽいのがモテる」。
同性愛者としての経験値が上がるにつれて、「キレイな夢」でなく「リアルな萌え対象」が見えてくるらしいです。
というわけで、同性愛者にとっても「若衆茶屋」で美少年を金出して買う時代は終わって、同性愛者同士の独自のコミュニティーの中でそれぞれタイプの相手お探す時代になったんだろうと思います。
 

= せっかくなので若衆茶屋ネタもう少し=

・寛延・宝暦のころ、1700年代半ばの、ちょうど江戸の中頃ですが、「男色楼(なんしょくろう、なんだかエロい響き)」について。

・一番多かったのが「芳町(よしちょう)」。 

芳町は芝居小屋が二つ並んでいたので「二丁街(にちょうまち)」と呼ばれた芝居街、日本橋の、堺町(中村座があった)、葺屋町(市村座があった)、のすぐ南側にあります。
場所で言うと銀座線人形町駅の神田方面の出口出たあたりです。チナミに、この東横が「元吉原」、浅草に移る前の吉原があった場所です。
この当時数件の置屋、揚屋、茶屋が並び、若衆100人以上いたそうです。

当然そのうち何割かは主に女形でお芝居に出ました。「芝居子」とか「色子」とか言われました。上方のは「花子」と言ったらしい、「かげま」という単語をここでは意識的に使ってないのですが、「かげま」という俗称があったことはたしかですが、ちょっと、一般名称としてはどうかというのがワタクシの意見。

あとは ・「木挽町(こびきちょう)」。今の歌舞伎座の真向かいあたり、「河原崎座(または守田座)」がありました。

・「湯島天神そば」「芝明神そば」、これは、大きい神社の参道沿いはかならず遊興地だったので、その一角に「若衆屋」もあったわけですが、ターゲット客層はそれぞれ近くにあった上野寛永寺、芝増上寺やその周辺のお寺のお坊さんたちです。 僧侶に男色が多いかと聞かれれば、多かったに決まってますが(笑)、むしろ、「男なら比較的堂々と買えた」というのもあるかと思います。男なら店外デートもできるし(バレバレです)。

どうしても女のヒトがいい芝のお坊さんは、品川の宿場女郎と遊びに行きました。
官許遊郭の吉原はもちろん、舟でしか行けない深川も、篭で見世先に乗り付けられないのです。品川は宿場なのでオッケー、姿を見られずに店内に入れますよ。
ってこれは余談です。

お寺と男色についてだと、
最もお寺にゲイが多かったのは平安鎌倉時代だと思います。
男は夜這いして結婚したあとも浮気するのが義務みたいだった時代、出家しちまえばまわり男ばっかノープロブレムですよね、小金のあるゲイは軒並み出家したんじゃないかと。
江戸時代は、↓で説明しますがわりと結婚しなくてもオッケーな時代だったので、そのへんてきとうかと。

さらにお寺といえば、上野寛永寺、芝増上寺と並んで徳川の菩提寺であった、小石川の傳通院(でんづういん)、 今もですが小石川、ワタクシ住んでましたが、見事にお寺だらけですが、この周辺に男色楼はなかったモヨウ。
樋口一葉の「にごりえ」の舞台になった花街が今の丸山福山町のあたりですから、あのへんに遊女屋はあったのかなあ。 代わりといっちゃあナンですが、「理心流」、新撰組の母体ですね、その道場がありました。傳通院の裏あたり。
柳町の坂の上ということですので、初音の湯がある上のへんかな(ローカルネタだなあ)。
理心流は、妙な伝統があり、3代続いて弟子を養子にして道場を継がせているのです。
近藤勇は4代目ですね。
子供がいなければ養子を取るのは、あの時代かなり気軽に行われていたことですが、 ふつうは「もらい子」、子供のウチから育てます。
いい年した弟子と、そろって毎回「養子縁組」するなんて、アヤシすぎです。
ていうかヨメいたのかこいつら?
だいたい傳通院の裏ですから、寺ばっかです。道場の客層ターゲットであるはずの小大名(自前で大した道場を持てない)、大きい旗本なんかはあまりいません。小振りの武家屋敷はあったけど。
実際、道場、はやってなかったようです。
どういう客とってたんでしょう(やめれ)。
いや、客に行ってたのかもですが(小坊主萌え?)(←やめれって)

気を取り直して

・「麹町天神」 正確な場所わかりません。ていうか外堀の内側じゃん、旗本上屋敷が並ぶあたり。いいのかそんなもん作って。
・「塗師町(ぬしちょう)代地」「神田花房町」 どちらも神田の職人町だと思いますが場所特定できません、

この4カ所は文化文政ごろにはなくなっていたモヨウ。盛んだった「芳町」も、十数人に減ったそうです。
この人数じゃあ商売できねえですよねえ、客の好みだってあるしね(笑)。
そして天保の改革で全部滅びます。湯島では細々やってたらしいです。
 

=上方の「若衆屋」=

上方には、江戸の芳町のような「若衆屋」だけの色町はなく、フツウの遊女街にそれぞれ1、2件づつ混ざって立っていたようです。
また、その場で「若衆」を買ってお座敷で遊べる「茶屋」はなく、「置屋」だけでした。
遊女のいるフツウの「茶屋」に「若衆」も呼ばれていったようです。

 (一応、遊郭お店用語
 揚屋=お座敷だけ、遊女はいない、「置屋」から遊女を呼んで遊ぶ。
 置屋=お座敷がない、遊女を抱えて住まわせている。遊女は「揚屋」や「茶屋」に呼ばれていく。
 茶屋=お座敷もあり、抱えの遊女もいる。置屋から遊女も呼べる。
 一般に「揚屋」のほうが「茶屋」より店としてのランクは上だが、揚屋は高いのでだんだん衰退しましたよ)。

チナミに今の売色と違って「茶屋遊び」は「エッチ」だけが目的ではなく、楽しくお酒のんでおしゃべりしたり踊ったりも大切でした。しかもいざベットインしても「体調悪いし」でさせてもらえないことすらありました(ひどい・・・)。
そうやって遊女と遊ぶ、同じ「茶屋」に「若衆」も呼ばれて行ったわけです。
しかも「若衆」女装。区別着きません。

あと上方だと「若衆」は全て、少なくとも形の上ではどこかの役者さんのお弟子だったようです。

五代目松本幸四郎は上方(京)の生まれでハタチ近くなってから上京し、はじめ五代目岩井半四郎(女形)、後に五代目団十郎の弟子になって二枚目系の悪役で名をはせたかたですが、 京では「若衆」をしていたのは事実です。
これが「一応役者らしいことをしながら売色も」だったのか「役者の弟子はカタチだけで、もっぱら売色」だったのかがビミョウなところなのです。いいけど。

チナミに師匠の五代目団十郎は息子の六代目をそっちのけでこの幸四郎をかわいがり、五代目の死後この二人はむちゃくちゃ仲が悪く、てか幸四郎、ものすごく六代目をいじめたらしいのですが結局六代目団十郎は(幸四郎のいじわるをやりかえすのには成功したけど)役者そのものがイヤになって、早くに引退したのでした。
まあ、父親の五代目団十郎と幸四郎とは当然なんかあったろうし、「役者」というか、この世界の中の同性愛的な雰囲気がイヤになったのかもしれないなと想像します。
「大の男が顔におしろい塗ってるのがもうナサケなくてイヤ」とか言ってたらしいしな。
 

= 3: 同性愛文化 =

そして、いわゆる、今日びも存在するような普通の「同性愛」についての記述となると、一気に見つからなくなるのです、江戸の本。
「膝栗毛」の弥次さん喜多さんの「モト男色関係」ネタはわりと有名なようですが、
これは人気作なので何年も続けて出版された「弥次喜多」シリーズの中程、第五巻あたりの冒頭で、番外編として過去の二人の経歴が描かれたのですが、
その中で「しゃれ」というか、受けねらいの「ネタ」として書かれただけです。作中の正しい意味での基本設定ではありませんよ。
しかも一応喜多さん「若衆」。旅回りの役者が抱えていた若衆という設定です。その役者の名前が「鼻水垂四郎(はなみず たらしろう) 真面目にやる気ありません。
そして喜多さんが前髪剃った時点でイキナリ全ての関係も恋愛感情もお互いチャラに、ありえね〜。
「膝栗毛」の本編作中に、ふたりの男色関係を匂わせる記述は皆無です。むしろ「ぺっぺっ汚ねえ」みたいなかんじです。

というかんじの「笑いを取るネタ」系か、または「スキャンダル」系の扱いになってしまうように思います。
しかもそういう場合ですら絶対に「受け」側が女装しているか、若衆であるかが条件となります。
お芝居の「三人吉三」とか「傾城忠度」とかですね。
書くヒトが明らかにそっちのヒトだったりするので(河竹黙阿弥とか)、そういう感覚で見れば確実に「同性愛」やってるわけですが、異性愛者の感覚で見たときに「異性愛」とダブって見えるように絶対オブラートがかけてあるというか。
と言いきるほどたくさん古い本読んだワケではありませんが、普通に手に入る本やお芝居にはまず出てきません。

つまりよっぽど「稀少本」と言われるようなのを当たらないと逆言えば見つからないのではないかと。
「春画」についていえば、江戸時代はモロ出し画像がバンバン出回っていた時代ですが、同性愛モノの性交をモロ出しで描いた春画は、殆どありません。これは林美一先生がおっしゃってるから確か。
こういう状態は、今の出版界の中での同性愛関係の出版物のマイナーさと結局同じだと思います。
一般的な消費需要になじまなかったということは、つまり、「認められていなかった」ということです。
「同性愛」という概念をどのレベルでくくるかにもよりますが、
「同性愛者にとっても楽しいモロモロの文化」が存在したというだけで、「同性愛文化」が一般的だったわけではないということです。
 

= 4: 役者世界 =

古今東西、同性愛者が多いのは「役者世界」と相場が決まっているようですが、
特に日本では、男だけでお芝居してましたから同性愛のニオイが当然ものすごくするわけです。いろいろネタになってます。
でもこれも、「女形(おんながたと読むのよ、おやま、じゃなく)」のほうが「女装した状態で」 という但し書きが付くから受け入れられたのだと思います。「若衆」文化とノリは同じです。

実際に七代目団十郎とか三代目三津五郎とか(名指しかい、)、あの世界有名どころでも「モノホン」は多かったのは確かなんですが。

七代目団十郎は奥さんを何人だっけ、調べるのめんどくさい、9人とか11人とかもらったので、現代に置いては「女好き」の烙印を運良く押してもらってますが、ようするに「何度ヨメもらってもうまくいかなかった」だけのことです。
「今度こそは」と結婚しては、しばらくして離縁、の繰り返しです。
家には「内弟子」と称する美少年達が常に十数人寄宿していたようで、ジャニーズの合宿所状態です。
団十郎が借金まみれだったのは有名ですが、このガキどもにかかった金もバカになるまいと思います。奥さん逃げますフツウ。

だったらそもそも結婚しなきゃよさそうですが、「男として(ていうか団十郎として)ヨメ取って子供つくらなきゃいかん」という強迫観念があったようです。
まあ実際子供も数人いたし、みんな役者さんになったし、八代目団十郎も、その弟の九代目団十郎も名優でしたから努力した甲斐はあったというものです。
でも、やはり「同性愛者だらけ」が通り相場の役者世界で、当時の事情通には「バレバレ」だったにもかかわらず「異性愛者ぶりたい」と彼が思うあたりに、同性愛への心理的抵抗の強さを感じます。

当時大人気だった立役者、板東三津五郎と若女形、瀬川菊之丞との関係はなかなかに世間をさわがせたようで、「悪摺」と呼ばれる各種スキャンダルエロ本が出ています(読みました)。

ただ、ワタクシの意見を言わせていただけば絶対あれは年上で立役で座頭クラスだった「三津五郎」が「受け」で、「菊之丞」はバイセクシュアルかつ「タチ」だったと思いますが、当時の関係エロ本は当然、「菊之丞が受け」で描いています。
異性愛者の同性愛理解なんて所詮そのレベルから出るわけがありません。
まあ「三津五郎受け」描いても売れませんね、一部にしか(存在したとしても子孫が発見次第捨てたと思う)。

チナミにこのスキャンダルは三津五郎の奥さんの「お伝」というかたとの三角関係のせいで有名でした。
三津五郎、お伝という奥さんがいながら(しかもこのお伝さんのために前の奥さんを離縁している)、若女形の菊之丞と浮気。怒り狂ったお伝さんですが、いつのまにかお伝と菊之丞が出来てしまい(おい)亭主の三津五郎が今度は激怒、いろいろありましての笑える実話。
これも、菊之丞も三津五郎も「ゲイ」でなく「バイ」であるということを前提にしてヒトビトに楽しまれたことはまちがいありません。

江戸後期→末期の役者さんが書いた詳細な自伝本が存在します。若い頃あまり売れなかったかたなので、いろいろな経験をしており、当時の中、下級の役者さんの様子が手に取るようにわかります。らっきい活字本あるじゃん。「手前味噌」というタイトルですよ。古本屋さんでわりと見つかります。
「中村仲蔵」という名のそのかたは、あ、似顔絵、てか想像図

まあ、いい男ではなかったようです。シブい演技をする技巧派、所作(踊り)と立ち回りがうまく、ガッチリした体型、筋の通ったまじめな性格だけどシャレはわかる。
つまりモテ筋です(笑)。
作中同性愛についての記述はゼロではありません。師匠の中村勘三郎(既婚)が若女形に入れあげて貢ぎまくり、「みっともねえからよしなせえ」と意見したら出入り禁止になったとか(笑)。

一方で、「ここ、絶対なんかあったろあんた」という場面でも、自分に関係する部分では同性愛的な記述はいっさいありません。
旅回りに出ていたときの一座の女形役者との関係とか。「土地の特産品の反物でおそろいの半天こしらえた」とかいってるんだからベタベタじゃねえかてめえら。まわりに「女房」とか言われてるし。
興業中の宿は、一人一部屋ではないですが、主力の役者さんは二人一部屋とか。
つまり、事実上「二人暮らし」。
そして必ず(旅回りのたびに違う相手とそうなって)、帰りの道中でケンカ別れをするのです(と、想像されます、文章の不自然さから言って、(急にそのヒトの名前が出なくなり、弟の名前とともに「兄」とかになる)。
旅先のさびしさを紛らしたくって、甲斐甲斐しくしてくれる、舞台の上では女房役な役者さんとつい、ねんごろになっちゃうけど、旅が終わればそれまでですね、奥さん待ってるし態度豹変、そりゃ相手怒るわ、ってとこでしょうか?
当時の、周り中同性愛者だらけの芝居界にあっても、異性愛者の感覚では「同性愛ネタ」はふれたくない話題だったようです。
なんだかな。
 

= 5: 芝居茶屋とお相撲のはなし=

もちろん、芝居町(しばいちょう)では役者の売色が行われていました。
幕府が「吉原」と「芝居町」を「二大悪所」として厳しく監視したというあたりで、すでに実体は伺えるかと。
役者は「芝居町」、芝居小屋のある町の区画の中にしか住めないきまりでした。だから「売色」もだいたい「芝居町」で行われたのです。
まあ金のある役者さんは「別荘」を作って好き勝手な場所に住んだので、これは有名無実化した規則ですけど。
というわけで、芝居町での売色が、男色売春の需要を一手に引き受けた結果、「若衆茶屋」が衰退した、という見方もできるかもしれません。
あ、「一手に」じゃないですね、お相撲もありますね、
どちらも「茶屋」があるのがポイントです。
「芝居茶屋」「相撲茶屋」は、席の確保や飲食物の手配、幕間の休憩場所の提供、とともに、役者さんとの逢引きの手引きもしました。
もちろん「ひいきにしてる役者さんに会えてるんるん〜」みたいなお客さんが殆どだったはずで、えっと、スポンサーの娘さんが広告代理店のツテでジャニーズに会うようなかんじでしょうか。 そこを、でも、なんとか「いたしたい」という交渉をしてくれるのが茶屋だったわけです。

お相撲事情は全然詳しくないので書けませんが、それこそ同性愛的な「スポーツマンなアニキ」の世界だと思いますが、だからこそというか、資料は見つけにくいだろうと思います。

と言いつつ一応書いてみると(書くのか)、
当時の「関取」には必ずパトロンがいたのは事実です。
「贔屓客」が何人かいます。これは折りにふれて金品の贈り物をくれます。
その中で金と力のある、安定して金品をくれるような「贔屓客」が「旦那」と呼ばれて、殆ど「ご主人」のような立場だったようです。
あと、今みたいな「部屋」というものはなく、もちろん相撲協会もなく、強い力士がそれぞれ自分の家に弟子を寄宿させてメンドウをみていました。
これはまあ職人や役者さんが弟子を取るのと同じやりかたですから特に「アヤシイシステム」ではありませんが。
ただ役者以上に、相撲取りのこのような生活は「ご贔屓」や「旦那」の支援なしではなりたたなかったようです。なので「役者」よ「「相撲取り」のほうがご贔屓への依存度はかなり高かったと思います。
そういう意味で「旦那」の要求はいろいろな意味でかなり通ったかと。

もちろん「旦那」のほうにも「惚れた弱み」があるので「関取」のワガママをいろいろ聞くわけですが。そのへんのかけひきっぷりが「男芸者」と呼ばれるゆえんでしょう。
そこに「ファン心理」以上のものがあるかどうは、完全にケースバイケースだったのではないかと思います。
相撲取りが出てくる有名なお芝居「双蝶々曲輪日記(ふたつちょうちょう くるわにっき)」で、若旦那の与五郎が贔屓の関取の濡髪長五郎と会話するシーンがありますが、まるで初々しいカップルのようです。意識的にそういう演出です。
ストーリー上では与五郎は遊女の吾妻ちゃんと相思相愛なんですが。

また、当時の相撲取りは「スポーツマン」というか、「街の侠客」に近かったようで、それがパトロンを持って見せ物でケンカしていた、という図式の考え方も、少し強引ですがアリかと思います。 とは言っても相撲取りは決してそんな安っぽいものではなく、本当に大スターでした。ひとりひとりの相撲取りが、というか、「相撲取り」という存在自体が気は優しくて力持ち、あこがれの対象だったのです。

お芝居の「ご贔屓」の話にもどります。
やはり一般的な認識は、キレイな女形(おんながた)の役者さんが女装のままでセックス、とかキレイな若衆役がおじさんのパトロンにどうこうされる、とかそういうのだったと思います。
ていうかそういう枕絵(変換しねえよ)じゃないと売れないと思うし。
ていうか、上の方にも描きましたが、「同性愛もの」の春画そのものが殆どありませんしね。

実際は立役のいかついおじさん役者も人気があったはずで、あんなことやこんなことやどんなことかわからないようなことをしたり、されたり、していたはずですが、
一般的にそういうことがウワサになったり、出版物のネタになったりは、あまりしなかったようだということです。

関係ないですが、あの時代の春画のナニやソレの大きいのは世界的に有名なようですが、
あの不自然なほどの大サイズの理由について、ワタクシなりの意見を申しますと、
「体位の自由度が上がるから」だと思います。
じっさい、自分も仕事でエッチな絵も描くのでいろんな体位描きますが、マトモな体型とブツのサイズだと、描けるポーズには限りがあることはたしかです。
実際浮世絵の春画は「なんじゃこりゃ」なほどトンデモナイ体位でやってる絵が多い上に、殆どが着衣エッチなので、どこでどうつながっているのかわかりやすくするためには、まあ、大きめに描くのがよかったのだろうと思います。
浮世絵でも初期のものは常識的なサイズだったようですよ。
当該部分の周囲にココロの中で円を描き、円の中は拡大図、と思ってみていただくとわかりやすいんじゃないかなと思いますです。

チナミに女のお客さんもいました、芝居町。というか若衆茶屋にも女性客いました(女装してたんだから、レズ?)。
と書いたら知り合いの女性が「美少年に女装させてエッチしたい気持ちすごくわかる」と言いました。そういうもんですか。
女の人が男を買ったり囲ったりする行為については江戸前半期のほうが盛んで、ごく普通に行われていたようです。
「囲っておく」系は、戦前くらいまでわりと普通だったかも。
「好色五人女」は西鶴だから江戸前半の本、ここにも、男子禁制の武家のお腰元やお大店の奥様に、あの手この手で間男を引き合わせるテクニックが事細かに書かれています。 ステキな本だ。

中世のおおらかでエネルギッシュな雰囲気がまだまだ江戸前半期には残っていましたから(そのぶん治安は悪くて住みにくかったわけですが)、そういうことも性風俗のありように大きく関係していたと思います。
「キレイなら男でもいいや」というアバウトすぎるセックス観も、中世特有の雰囲気なしには語れないのかもしれません。

そういえばお芝居で言うと、かの森欄丸も「信長となんかあった」役では絶対出てきませんよ。
恋人の腰元とか出てきます。
消費者の大多数を「異性愛者」が占める状態で「同性愛」ネタがまかりとおるほどには「同性愛」は「認知」されていなかったということです。今と変わらないと思います。
 

= 6: 市井の同性愛 =

結局、異性愛者から見た「同性愛者」というのは、いつの時代にも「理解不能ななにか」だと思います。正しい意味で「認知される」状態というのは考えにくいです。

ただ、数でいえば多かったろうと想像します。なぜかというと当時の大都市では、親元を離れた若い者はキホン的に「集団生活」だったからです。
職人であれ、お店(おたな)への奉公であれ、ヤクザさんであれ。
おんなのヒトも、商家の下働きやお屋敷への腰元奉公が多いですから集団生活です。
一人前になって男女ペアにならないと普通は独立しては住みません。
そして、結婚したくなければいつまでも「集団生活」していればいいわけです、衣食住は保証されてます。男ばっか、女ばっかで。いやん。
同性愛者があまりうるさいこと言われずに独り者でいるのはわりと簡単だったと思います。

さらに江戸は武家屋敷への「腰元奉公」のクチが多かったのですが、この中ビアン多かったろうなと思います。
(↑の中村仲蔵のお母さん(踊りのお師匠だった)がそういうかんじなのですが、長いので割愛)

だいたいが江戸は武家屋敷だらけの街ですが、この中なんて、問答無用に「男ばっかり」。
旗本屋敷はともかく、諸藩の大名屋敷のお侍は、お殿様の妻子は江戸から出られませんが、それ以外のお侍の妻女は本国にしか住めませんから、お侍は常に単身赴任です。
ずっと独り寝。
タテマエ上、藩侍は藩邸の中で暮らすことになっていますから、ヘラヘラ外にガールハントにも行けません。
お殿様付きの腰元衆と近づきになれない身分の低い武士達は、「若党」という下級武士や「中間」に身の回りの世話をさせつつ、男所帯で何年もくらします。
「中間」、ちゅうげん、奴さんですね、武家の下働きの男、外歩きのお供もしました。武士とも町人とも付かないビミョウな身分、しかもそのへんの今で言うプーの兄ちゃんを「臨時雇い」したりもするのでますます立場が不明確です。
その奴さんたちに至っては、思いっきり「中間部屋」で雑魚寝。荒っぽい連中な上、奉行所に対して藩邸は一応治外法権ですからいろいろ事件もあったらしいです(いやまあ、賭博とかさ)。
チナミにお行列のお供のときの中間=奴さんのファッションは、「紺看板」と呼ばれる短い半天に、下はフンドシ一丁、ケツが丸出しでした。ねらってますか?
まあ、「奴さんに至るまでカラダがいいのをそろえている」ことを見せる必要があったんですよね、お武家様、一応戦闘集団だから。

だから武士も町人もそういう「集団生活」の中でいろいろ同性愛的なことは多く起きたろうし、異性愛者も現代以上になんらかの経験や知識はあったろうと思います。
集団の中で、年下の弱いモノにそっち系のがいれば「サセ子」な状態が予測されるし、よってたかってどうこうなハナシもあったでしょう。
逆に立場が強い番頭さんとかが同性愛者な場合はセクハラな世界が現出したろうし、職人や人足や奴さんなどのガテン系の業界の雑魚寝なんて、そっち系エロ小説の定番「ラグビー部、合宿の夏の夜」を地でいくような事件がおきたに違いありません。

ただ、あの時代はセックスを非常に気軽に考えていた時代なので、女性とセックスするのもレベルを気にしなければ(有料無料ともに)けっこう簡単だったはずです。
むりくり男のケツを襲うほど彼らが「飢えて」いたかは定かではありません。
いずれにしても集団生活なのでプライバシーなさげですから、見聞きする機会は多かったでしょう。
で、ノンケのお兄さんたちは「そういうのもアリ」だけど「関係ないから」で、黙認しつつ、 「なかったこと」にして暮らしていたのではないかと思います。
 

 = 7: いろいろ=

あんまり関係ない内容も含まれます。思いついたことてきとう。
トピックスってことで。

近世において、公的に認められた制度ではなくても、世間的に殆ど公認され、まかり通っていた風習はいろいろありますが、非官許遊郭での売色とか。
「妾制度」もそのひとつでしょう。まあ現代も存在しますが、大正ごろまではかなり堂々と行われていました。
平安期が「一夫多妻」と誤解され、なんだかいまだに学校でそんなこと教えてるらしいですが、いいかげんにしろですが、その実体も、
「北の方」=寝殿造りの北の対に住むのが「正妻」。あとは「お局」=東や西のの対、またはその間に作られた局に住む「側室」です。これをひっくるめて一人の男性に対して数人の女性、なわけで、
「正妻」は常に一人です。あとは「妾」。今と変わりません。
「正妻」を取り替えたいときは、今の「正妻」を離別しなければなりません。これが、相手の親えらかったりするとタイヘンなのよ。ほんとに今と変わりません。
そもそも「男が3日通えば結婚」というほど野蛮でもなく、それは「ステディな恋人になった」というだけのこと、「結婚」は、あくまで親を通して家同士の結びつきとして行われました。
というわけで「通い婚」もウソ八百ですが、ここでは関係なさ過ぎるから割愛。

つまり、↑全て蛇足で(すまん)、
「妾」は公然と存在しましたが、「男が男を囲う」というのはあまりなかったようです、「男色」全盛の江戸初期であっても。
女性が男を囲うのはかなりアリでした。若後家さんとか、人気があって小金のある遊女とか。これも戦前くらいまでそれなりにフツウでした。
同居させてどうこう、というのはさすがにまずかったようで、どこかに囲っておいて女性の方が通った、遊女の場合は通って来させたようです。エロエロ。
「男が女に囲われる」のはアリでも「男が男を囲う」のはヘン、ということのようです。
男が男を庇護したい場合は、オモテ向きなにか仕事をさせていたのだろうと思います。このへんが、同性愛についての、そして「男の甲斐性」についての当時のビミョウな意識をあらわしているかと。
お坊さんは堂々と男を「囲ってた」んでしょうけどね(笑)。

「妾(めかけ)」という単語は、昔は「よそに囲っておく側室」という狭い意味ではなく、文字通り「目をかけた相手」という意味でした。
「恋人」という意味もあったようです。そして、「目をかけた」女性は「かかぁ」にしましが、「男」は「かかぁ」にできませんから「目かけ」のままです。暗に「男の恋人」という意味合いもあったらしいです。

で、「目かけ」→「目ッ欠け」→「(片目で有名な武将)鎌倉権五郎景政(かまくらごんごろう かげまさ)」→○○は■■の「カゲマサ」だ、
というような隠語が生まれ、それが「かげま」という単語に変化した、という説があります。
どうかなあ、「かげま」、元は上方で使われていた単語なので、上方の人間が東北の「後三年の役」で活躍した権五郎景政(江戸歌舞伎の「暫」の主人公ね)にそれほど思い入れあるかなあ。ちょっとマユツバです。なら書くなですが、トピックスとしては楽しいかと(レアすぎます)。

「かげま(陰間)」はご存じのように売色する若衆のうち、舞台に出る「舞台子」「花子」以外のものを「陰にいる物」という意味で指す、ことになっていますが、実際には他にもいろいろ意味があり、
てか舞台に出てる子だって売色したんだから「売色する子」=「陰間」と呼ぶのはヘンですよねー。

遊郭で、おおきな店のかたわらで、長屋風の建物の小さな部屋で売色をしていた下級遊女がいました。時代とともに営業形態も名前も違うようなんですが、だいたい「端見世女郎」とか「長屋女郎」とか呼ばれました、
そのなかでも、より下級なおねえさんたちを「陰間」と呼んだモヨウ、物陰の部屋ですね。
もしくは自分の部屋持ってなくてその都度借りていた、または複数で共有していたみたいな可能性もあるかなと思います。
一般に女郎は「マイ部屋」「マイおふとん」がキホンでしたから。「揚屋」でいたすときは「マイおふとん」持っていったくらい。
だから「部屋のない女郎」というのはかなりレベル低かったに違いありません。

あと、「茣蓙居(ござい)」と呼ばれるかたがたも「陰間」と呼ばれました。
やもめ暮らしの男性のところで表向き家事の世話をしつつ、主にエッチのお相手をなさったかたです。 エッチなメイドさんですね(趣旨はそうだがなんだかイメージ違う)。
「陰間」という言葉の意味からすると、これらのほうがぴったり来ます。

だいたいが「女形(おんながた)」を「おやま」と呼ぶことについてですが、「おやま」はもともと上方の非官許の売色茶屋の遊女の俗称、官許遊郭の遊女は「おやま」とは呼ばれませんでした。
というわけで「おやま」、本来あまり上品な単語ではありません。
「売色するもの」というニュアンスすら含まれます。
「かげま」も、まあ、男の売色の世間的地位はどのへんかはおいとくとしても、ちょっと、かなり、レベルの低い売色の意味を持ちます。
もともとのニュアンスをわかった上で「おやま」「かげま」と言うのはいいんでしょうが、
いかにも「当時はこう言ってたんだよ」と専門用語っぽくこれらの単語が使われるのは、聞いていて「なんだかな」と思います。
「おんながた」「わかしゅ」で充分じゃん。
いや、いいんですけど。
 
 

=8: まとめ(いちおう)=

だから、江戸時代のひとびとの同性愛観というのは、たぶん、

・「衆道」という異性愛者の性風俗と混同している。同性愛者でも「前髪」を相手にしているかぎり「衆道好きの異性愛者」と区別できないのである意味寛容に見ている。
・「同性愛」そのものについては現代よりは日常的に見聞きしたろうけど、関係ないからムシ、黙認、
そもそもあまり理解していないから、「衆道」との混同もあり、おじさんが美少年を襲うと思いこんでいる。

といったところだと思います。

「自己責任(笑)で勝手にやってるぶんには干渉しませんが、見えないところでやってくださいね」 というスタンスだとすれば、今の社会とあまり変わらない気がするんですよね。

なんか、長いワリに面白みのない結論ですが、そんなもんでしょ、おなじ日本のちょっとだけ昔のことなんだしいい。
全部読んでくださったかたありがとうございます。

=おわり=







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